あんまりこのブログには関係ないだろうと
書かなかったし、別に母のこととか
私の精神や発達障害に関係ないだろうと書かなかったけど
母はこのブログ書いてるの知ってるので
普通に書いていいよーって感じで言われたので
私自身の整理がてら書いていくか。
ーーーーーーーー
母が19のときに毒姉(私の伯母)から逃げる
逃げた先の職場で私の父親と出会う
25で私が産まれる
しかし、この父親がくずで働かず
母が産気づき私が産まれたときは
焼き鳥屋で酒を飲んで酔いつぶれてねていた
つまり、私は父親に望まれて産まれたわけではない
祝福もされなかった
初めて私を抱っこしたのは祖母で(母の母)
名前をつけたのは祖父である(母の父)
父親はもちろん、父方の親戚は誰一人来なかった
私にはそんな暗い誕生秘話がある。
しばらく、私の産まれた土地で暮らすが父親が死去
まあ、晴れて…というのもあれだけど母は父親と別れられた
(それでも、離婚は考えていたらしい)
私の母が私を連れて実家に戻ろうと新幹線に乗ろうとしたとき
姑が駅まで追いかけてきて
「子供を置いてけ、大人になったら働かすんだ」
と、のたまったらしい。
父方の親戚は私を金づる要員としか見ていない
母はうすうすそのことに気づいていたが
改めてその発言を聞いて
私を置いていけば私が必ず不幸になる…と思ったらしい
新幹線のなかで母と姑は
昔話みたいに私を取り合い引っ張りあった
母はここで離したら私ともう会えないと思って
ものすごい勢いで姑から私を奪い取って
姑を新幹線のなかから追い出したらしい
そして、新幹線は発車した。
…で、実家にいったん戻ったのだが…
そもそも、母と祖父はあまり仲がよくなかったので
祖父はじきに母と私を追い出した
祖母は制止してくれたがムダに終わった
そして、私と母は「母子寮」で暮らすことに。
このときかなり金銭面で困窮していた。
母子寮に住んでいる母子家庭のお母さんたちと
食べ物や家具などを分け合いカツカツの暮らしをした
生活保護をもらってる人、DVされて逃げた人もいたらしい
でも、みんな子供を育てるために助け合った
母は血の繋がりがある親だけが絶対ではない
助け合える身近な他人もいる
どこにでも救いは少しはあるということをこの時知ったらしい
しかし、母子寮の職員の一人が最悪で
昼寝してる私の指を捻ったことがあって
私が覚えたての拙い言葉でそのことを母に告げると
母は二度とその職員に私を預けることはしなかった。
それから、何年かたって
嫌なことはあれど、深く考えず育った私は
母子寮でのうのうと暮らしていた
同じ年齢の子供がいたので
昼間は一緒に遊んでるので暇もしないし
保育所には優しい保父さんがいた。
私はこのときガキ大将で
かけっこは、いつも1位で
手下みたいな男の子をいつも3人ほど連れていたらしい←ヤバい
その男の子に嫌いな食べ物を食べてもらったりしてた←ヤバい
いつも髪をひっぱってくる年長組の男の子と
取っ組み合いのケンカをしたのはなんとなく覚えてる
ガキ大将のくせによく泣いていた記憶がある
特に覚えてるのは
見学?みたいなので保育所に消防車がきたことがあるんだけど
消防士さんがいろいろ消防車とかホースとかを見せてくれたのに
私はあの赤い巨体が怖くて泣きまくった
しかも、その泣いてるところを写真に撮られた
それは、今も残っている
その写真を見るたびになんか恥ずかしい
ーーーーーーーー
母子寮を出てからは
母の実家の近くにアパートを借りて暮らした
私が病弱というか、よくひきつけをおこし
喘息や肺炎になって熱を出し入院していたので
母はやっぱりパートくらいしかいけなくて家はカツカツ。
肺炎といえば、嫌なエピソードがあって
私が産まれたばかりのときの話だけど
肺炎で入院したとき
赤ちゃんだった私は咳がとまらなくて苦しくて
ずっと病室で泣いていたらしい
その病室には親子がいたんだけど
その親がうるさいから泣く私を黙らせろとか
私の汗のついた服を汚いから病室に干すなとか母に文句をつけた。
(病室に干すといっても私の寝ているベッドの柵に服をかけていた)
母は寝ずに看病したとか。
本当に病弱ですまないと思ったエピソード。
ーーーーーーーー
最近、あの母子寮のことを思い出して
グーグルマップで調べてみたらまだあった
母子寮の入り口を見て過去の記憶がよみがえった
キューピーさんの人形をおんぶひもで背中におわせてもらって
車のおもちゃに乗って遊んでたなーとか
それ見て職員の人が写真撮って
パートから帰った母に見せて笑ってたなーとか
職員さんが、きれいな花を持たせてくれて写真撮って
それを見せて私の1日の様子を母に話してくれたり
そんな日々を過ごしてたなーと思い出した
ちなみに、母子寮の時の写真類は
私が引きこもって不安定になり
家中にある過去の写真を怒りに任せて破り捨てたとき
母の定期入れから見つけて号泣したことがある
(その写真は破らなかった)
なんかいろいろ、子供の頃と
引きこもってたときの自分を重ね合わせながら
グーグルマップでさらに見てみると
いつも保育所に行くとき母と歩いた道とか
帰りに寄り道して見てたテニスコートとか
忘れてたのに見たらどんどん昔のことを思い出して
今も、あの母子寮では私と母のような
親子が生活してるんだろうと考えると
涙がちろっと出てきた。
それと、私と母が金銭面で困窮していたとき
助けてくれたお母さんたちは
どうしているんだろうと考えた
それにしてもこの「助け合い」
なにがあっても「自己責任」で終わりがちな
この時代にはとても大事なのではないか
私は昔のことを振り返りながらそう思った
私も今度は誰かを助けられる人間になりたい
まあ、お金とかはないし、もめるから貸せないけど
住む場所がないなら一人くらいなら住まわせてあげたり
(家賃は半分出してもらうけど)
食べ物とかなら譲ったり、相談にのったり…そのくらいならできる。
私自身は親戚に見捨てられたり
学校でも友達に裏切られたり
教師に助けてもらえなかったりしたから
人間は好きではないし、関わりたくないけど
母子寮や本当に生活で困ったとき
確かに助けてくれた人もいたから
私はなんとかそういう人間でありたい。
そういう思いが最近、芽生えつつあったんだけど
昔住んでた母子寮を見て改めて再確認した。
うまくできないかもだけど、なんとかやってみる。
書かなかったし、別に母のこととか
私の精神や発達障害に関係ないだろうと書かなかったけど
母はこのブログ書いてるの知ってるので
普通に書いていいよーって感じで言われたので
私自身の整理がてら書いていくか。
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母が19のときに毒姉(私の伯母)から逃げる
逃げた先の職場で私の父親と出会う
25で私が産まれる
しかし、この父親がくずで働かず
母が産気づき私が産まれたときは
焼き鳥屋で酒を飲んで酔いつぶれてねていた
つまり、私は父親に望まれて産まれたわけではない
祝福もされなかった
初めて私を抱っこしたのは祖母で(母の母)
名前をつけたのは祖父である(母の父)
父親はもちろん、父方の親戚は誰一人来なかった
私にはそんな暗い誕生秘話がある。
しばらく、私の産まれた土地で暮らすが父親が死去
まあ、晴れて…というのもあれだけど母は父親と別れられた
(それでも、離婚は考えていたらしい)
私の母が私を連れて実家に戻ろうと新幹線に乗ろうとしたとき
姑が駅まで追いかけてきて
「子供を置いてけ、大人になったら働かすんだ」
と、のたまったらしい。
父方の親戚は私を金づる要員としか見ていない
母はうすうすそのことに気づいていたが
改めてその発言を聞いて
私を置いていけば私が必ず不幸になる…と思ったらしい
新幹線のなかで母と姑は
昔話みたいに私を取り合い引っ張りあった
母はここで離したら私ともう会えないと思って
ものすごい勢いで姑から私を奪い取って
姑を新幹線のなかから追い出したらしい
そして、新幹線は発車した。
…で、実家にいったん戻ったのだが…
そもそも、母と祖父はあまり仲がよくなかったので
祖父はじきに母と私を追い出した
祖母は制止してくれたがムダに終わった
そして、私と母は「母子寮」で暮らすことに。
このときかなり金銭面で困窮していた。
母子寮に住んでいる母子家庭のお母さんたちと
食べ物や家具などを分け合いカツカツの暮らしをした
生活保護をもらってる人、DVされて逃げた人もいたらしい
でも、みんな子供を育てるために助け合った
母は血の繋がりがある親だけが絶対ではない
助け合える身近な他人もいる
どこにでも救いは少しはあるということをこの時知ったらしい
しかし、母子寮の職員の一人が最悪で
昼寝してる私の指を捻ったことがあって
私が覚えたての拙い言葉でそのことを母に告げると
母は二度とその職員に私を預けることはしなかった。
それから、何年かたって
嫌なことはあれど、深く考えず育った私は
母子寮でのうのうと暮らしていた
同じ年齢の子供がいたので
昼間は一緒に遊んでるので暇もしないし
保育所には優しい保父さんがいた。
私はこのときガキ大将で
かけっこは、いつも1位で
手下みたいな男の子をいつも3人ほど連れていたらしい←ヤバい
その男の子に嫌いな食べ物を食べてもらったりしてた←ヤバい
いつも髪をひっぱってくる年長組の男の子と
取っ組み合いのケンカをしたのはなんとなく覚えてる
ガキ大将のくせによく泣いていた記憶がある
特に覚えてるのは
見学?みたいなので保育所に消防車がきたことがあるんだけど
消防士さんがいろいろ消防車とかホースとかを見せてくれたのに
私はあの赤い巨体が怖くて泣きまくった
しかも、その泣いてるところを写真に撮られた
それは、今も残っている
その写真を見るたびになんか恥ずかしい
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母子寮を出てからは
母の実家の近くにアパートを借りて暮らした
私が病弱というか、よくひきつけをおこし
喘息や肺炎になって熱を出し入院していたので
母はやっぱりパートくらいしかいけなくて家はカツカツ。
肺炎といえば、嫌なエピソードがあって
私が産まれたばかりのときの話だけど
肺炎で入院したとき
赤ちゃんだった私は咳がとまらなくて苦しくて
ずっと病室で泣いていたらしい
その病室には親子がいたんだけど
その親がうるさいから泣く私を黙らせろとか
私の汗のついた服を汚いから病室に干すなとか母に文句をつけた。
(病室に干すといっても私の寝ているベッドの柵に服をかけていた)
母は寝ずに看病したとか。
本当に病弱ですまないと思ったエピソード。
ーーーーーーーー
最近、あの母子寮のことを思い出して
グーグルマップで調べてみたらまだあった
母子寮の入り口を見て過去の記憶がよみがえった
キューピーさんの人形をおんぶひもで背中におわせてもらって
車のおもちゃに乗って遊んでたなーとか
それ見て職員の人が写真撮って
パートから帰った母に見せて笑ってたなーとか
職員さんが、きれいな花を持たせてくれて写真撮って
それを見せて私の1日の様子を母に話してくれたり
そんな日々を過ごしてたなーと思い出した
ちなみに、母子寮の時の写真類は
私が引きこもって不安定になり
家中にある過去の写真を怒りに任せて破り捨てたとき
母の定期入れから見つけて号泣したことがある
(その写真は破らなかった)
なんかいろいろ、子供の頃と
引きこもってたときの自分を重ね合わせながら
グーグルマップでさらに見てみると
いつも保育所に行くとき母と歩いた道とか
帰りに寄り道して見てたテニスコートとか
忘れてたのに見たらどんどん昔のことを思い出して
今も、あの母子寮では私と母のような
親子が生活してるんだろうと考えると
涙がちろっと出てきた。
それと、私と母が金銭面で困窮していたとき
助けてくれたお母さんたちは
どうしているんだろうと考えた
それにしてもこの「助け合い」
なにがあっても「自己責任」で終わりがちな
この時代にはとても大事なのではないか
私は昔のことを振り返りながらそう思った
私も今度は誰かを助けられる人間になりたい
まあ、お金とかはないし、もめるから貸せないけど
住む場所がないなら一人くらいなら住まわせてあげたり
(家賃は半分出してもらうけど)
食べ物とかなら譲ったり、相談にのったり…そのくらいならできる。
私自身は親戚に見捨てられたり
学校でも友達に裏切られたり
教師に助けてもらえなかったりしたから
人間は好きではないし、関わりたくないけど
母子寮や本当に生活で困ったとき
確かに助けてくれた人もいたから
私はなんとかそういう人間でありたい。
そういう思いが最近、芽生えつつあったんだけど
昔住んでた母子寮を見て改めて再確認した。
うまくできないかもだけど、なんとかやってみる。